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千利休自害の謎。犯人は「石田三成」? 史料から捜査する

あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察 第6回

 秀吉が利休に謹慎を命じたのは、天正19年(1591)2月13日のことだった。注意しておかなければならないのは、秀吉が最初に命じたのは謹慎であって、切腹ではなかったことである。秀吉としては、最初から利休に切腹を命じるつもりはなかったのではあるまいか。もし利休が秀吉に謝罪していたら、切腹はもちろん、謹慎も解かれていたかもしれない。しかし、謹慎の間に利休が秀吉に謝罪することはなかった。こうして謹慎が2週間近くにおよんだ2月25日、秀吉は大徳寺の三門に安置されていた利休の木像を引きずりおろすと、利休の屋敷に近い京都堀川の一条戻橋で磔にしたのである。そして翌2月26日、利休の屋敷は、上杉景勝の軍勢3000によって囲まれたうえで、切腹を命じられた。享年は70という。

 利休を切腹に追い込んだ犯人が石田三成だとする史料は、実際のところなにも残されていない。利休の切腹後、利休の娘が石田三成に捕らえられ、拷問のすえに殺されたとの伝聞を公家の吉田兼見が日記に記しているのは確かである。しかし、これはあくまでも伝聞であり、事実であったわけではない。秀吉の側近であった利休と奉行の三成との間には、権力をめぐる争いがあったのは確かだろう。しかし、三成が秀吉に讒言をして利休を切腹に追い込んだとは、残された史料からは確認できない。そもそも、三成自身には利休を切腹させるといった生殺与奪の権を握ってはおらず、すべて、秀吉の胸三寸だったわけである。ここでは、三成は無実であったと考えたい。

 秀吉は、大坂城に天井や壁を金箔押にした黄金の茶室を作らせていた。こうした茶室は簡素簡略を求める利休の茶の湯とは精神性が異なる。利休は、決して秀吉のイエスマンになることを潔しとせず、異見を述べていたものかもしれない。あるいは、大名らの私的な訴えなども秀吉に伝えていたろう。それが、秀吉の不興をかって切腹に追い込まれた可能性はあろう。実際、利休の高弟であった山上宗二は、秀吉の不興をかって斬首されている。

 一説に、利休が家康と共謀して秀吉を毒殺しようとしていたともいわれるが、暗殺計画が露見したのであれば、間違いなく斬首されたはずである。また、家康と通じていた利休に自害を命じることで、家康に圧力をかけたとする説もあるが、そもそも家康と利休が通じていたのかはわからない。いずれにしても、秀吉が斬首ではなく切腹を命じたのは、利休に対するせめてもの温情のつもりだったのだろう。

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小和田 泰経

おわだ やすつね

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』、『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(ともに新紀元社)他。


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